水越峠~太尾塞跡~葛木神社~一の鳥居~かやんぼ~水越峠

を歩いてちょっと歴史と触れ合いましょう

 

チラッとお読みいただくだけで楽しい山行になります。

しっかり読んだら?モチ!!それだけ楽しくなります。

 

○水越峠の水争い

1701年元禄14年旧暦56日の田植え時、それまで大和がせき止めて大和に流していた水、万治が滝行者の水と越口行者の水を、河内の農民1020人がせきを壊して河内へ流したことで激しい水争いに発展した。前年にも河内がせきを壊し、その時はすぐに大和は取り戻している。

せきを破壊した3日後に大和の吐田ハンダ郷六か村(名柄・関屋・豊田・増・宮戸・森脇)が京都所司代に出した訴状によると、髪の元結いに白い紙を巻いて1020人が螺貝を吹いて押し寄せてせきを壊し、「吐田郷之用水一滴も無き様に河州盗取申候」そのため田植えができない。「我儘之狼藉先代未聞無御座候」となっている。

1570年頃にもせきを壊して河内へ流して三人が磔になった歴史があることから、河内の農民の切り落としは磔(はりつけ)覚悟のものと言える。

京都所司代の調べに河内大和の双方は国境論から水越峠の水は我が方のものと主張した。

 

河内(大阪側)は湧出ヶ岳~横峰(白雲岳からパノラマ台へ続くダイトレの稜線)~越口、さらに尾根通しで水越峠、篠峰シノミネ(=葛城山)

吐田郷(奈良側)は太尾の尾根通しで水越トンネル前の鎌取石(=重石カサネイシ境)、戒那山カイナサン(=葛城山)。

 

鎌取石の国境の論拠は、大坂冬の陣(1614年)の時 板倉伊賀守の命令で吐田郷が大和から大阪へ運ぶ兵糧米をここで差し止めたことで伊賀守から墨付きをもらうことになり、結果として西側の村からこの石を東へ越えて柴や草を刈りに来た者から鎌や鉈を取り上げたことを国境として主張した。

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同年1221日には判決が出た。

双方の国境の言い分からは決められない。

水越峠の水は古来大和が使っていたから水は全て大和のもの。

自今以後、河内大和の国境は次のとおり決めおく。湧出ヶ岳までは峯筋。湧出ヶ岳~葛木神社の前の参道にある福石~今の葛木神社の左後ろの高みの宝篋印塔(今は福石の隣りに移設されている)~阿弥陀ヶ嶽1125mの最高点葛木岳)~尾根続きで大日ヶ嶽~がんどが木場(太尾塞跡960m点)~艮(ウシトラ=北東)峯筋で越口~峯続きに水越峠、篠峰(葛城山)。

 

大宿坊(=葛城家)差出しの古証文で紛れもなく本堂(今の葛木神社)は大和になっている。(次項 2)に関連記事)

水越峠の水の歴史は1600年頃上田角之進(千早赤阪村誌によると1592年生まれ。御所市史によると1617年死去)が,地元の苗取り歌によると十二か三の頃に小さな土嚢をいくつか積んで、自然に任せば河内へ落ちるはずの水を吐田郷へ落としたと伝えられるが、磔は1500年台、せきの名称「行者の水」からは600年代後半となる。金剛葛城の東麓は急斜面で水を溜めにくく、神武天皇の時代200年頃から開けていて潅水の必要に意識が強かった。

水争いに発展して活躍し、裁判によって水越峠の水を権利として確立したのは吐田郷の高橋佐助。国境論を説得力あるものにするため実地調査に努めた。京都所司代に通じた満願寺には毎年の初穂米の献納を約束し、「等閑(=なおざり)に致し候へば家々の子孫滅亡と存じ候」と約束し、村民に義務付け、「報恩の実を挙げて絶えない」ことは御所市史に記載されている。

今は故人となられたが、御所市の観光事業に活躍されていた方から、2013年のこと、今にも続くとお聞きした。

参考文献 御所市史 千早赤阪村誌 河南町誌 

 

この国境が本来なら今の府県境のはずだが何故か、どんなことがあったのか、全くのうっかりミスなのか、今の府県境は展望台の北側と六道の辻の南側の間で西へ大きく湾曲している。湾曲の北端になる六道の辻の南側では標石と地図が一致しない。湾曲の途中は広範囲で地図上で明確な地形の特徴はない。なんでこんな府県境になったのか?葛木神社でも分からない。明治以降に大きな事件はなかった。奈良県庁に問い合わせても「分からない」。

2)判決以前の山頂付近の国境の認識と江戸時代の金剛山の様子

判決の5年前の1696年に貝原益軒(16301714)は「和州巡覧記(一名大和巡りの記)」に次のように書いている。

山上に葛城の神社有り。山上より一町西の方に金剛山の寺あり。転法輪寺と云。六坊有。山上は大和なり、寺は河内に属せり。(金剛山記P239

同じ貝原益軒は「南遊紀行」1713年には

絶頂に葛城の神社有り、大社なり。一言主の神と云。行者堂あり。今日はくもりて山下遠くみえず。うらめし、山上より二町西に下れば河内国金剛山転法輪寺あり。役小角開基なり。是山伏の嶺入して修法する所也。僧寺六坊あり、皆家作美大也。大和、河内の農民此神を崇拝し、社の下の土を少ばかり取て帰り、我田に入れば稲よく実りて虫食はずとて参詣の人夥し。皆宿坊有て宿する者多し。檀那(ダンナ=布施をする信者)にあらざれば宿を借さず。今日二十日目すでにくれぬ。地蔵院に懇望してやどりぬ。葛城の社は山のいと高き頂上にありて大和国也。金剛山の寺院は少し低き所にありて河内国也。(金剛山記P239~240

判決が出る前から山頂付近の国境はこのように理解されていたことがわかる。

貝原益軒の紀行文を読んで金剛山を登った中尾含真は「土産枝折鞭イエズトシオリノムチ(1738年)」に

千早よりは山の背をのぼるゆへ谷遠ければ、渇を沾ウルオすべき水もなし。坂急にしていとたへがたし。辛ふして山上に上りぬ。先、坊にゆきて水を求て渇をうるをしぬ。・・・葛城山金剛山寺と号す。又、金剛山転法輪寺共いふ。役小角開基なり。是、山伏の峯入して修法する所なり。寺中諸堂多し。僧舎六坊有。何れも家作り美大なり。先、大宿坊に入て休み酒を求て呑。此寺坊ごとに酒を醸す。味ひ甚だ美なり。畿内近国此山を尊信し、参詣の人多し。皆宿坊有て宿す。初而参詣の人、近付の坊なくても、所望すれば酒食のため一宿も自由なり。(貝原益軒の南遊紀行「檀那にあらざれば宿を借さず。今日二十日目すでにくれぬ。地蔵院に懇願してやどりぬ」)とはちょっと違う)

大宿坊をでて四町ばかり山の頂に上りて本堂へ参る。本尊法基菩薩なり。南向なり。東の方に一段上に三十八社の宮、東向きに立給ふ。社美麗なり。是、当山の鎮守なり。貝原氏は絶頂に葛城の神社有て大社なりと書り。此三十八社のことか、法基ぼさつのことか、本堂鎮守相並びて当山の絶頂に有り。此外に葛城の神社といふべきものなし・・・

本堂の前を南へ高間越に下る。千早の方より坂急なり。・・・雨ふり出ぬれば、急ぎて坂を下りて、高間の里山上より二十八町に至る。高間明神に参る。高間寺あり。・・・彼鶯の初陽毎朝来(初春のあしたごとには来たれども・・・)と囀りし梅の有し所なりといふ・・・。(金剛山記P2902

参考までにコロコロによる郵便道の1984年の測量結果では、今の転法輪寺寺務所から高間の里の取っかかり高天滝前の休憩所までの距離は3248m、二十九町半だから、崩壊以前の郵便道を下ったものと考えられる。

御所市史によると、鎮守としての地主神と三十八社が合祀されて葛木神社一社となった。(昭和40年版P506&P834

葛城家系譜略によると110代長香上人の項に「地主権現社(太古現今等の葛木神社是也)を建立し」と出ている。(括弧内は葛木神社の前身という意味か)

葛嶺雑記(1850年)には、金剛山にある葛城の鎮守として「三十八所明神」の名と所在地が国名で出ている。(葛嶺雑記 完P273 1979年発行 攝河泉地域史研究会編 和泉葛城修験道関係資料第一集 P28

3)神武天皇の論功行賞と葛城家系譜略

神武天皇は大和平定をすませてその功労者道臣命ミチノオミノミコト,大来目オオクメ、珍彦ウズヒコ、弟猾オトウカシ、弟磯城オトシキ、頭八咫烏ヤタガラスと劔根ツルギネの7人の功労を顕彰した(論功行賞)。

劔根命は高尾張邑タカオハリムラと呼ばれていた金剛葛城東麓を支配していた。神武の支配下に入って神武天皇が葛城と改名したこの地を論功行賞によって葛城国造カツラギノクニノミヤツコとして支配することになり、子孫に葛城の名を付ける権利をもらった。(日本書記巻第三)

金剛山頂の葛城家は論功行賞対象者天神立命アメノカンタテノミコト又の名は八咫烏命(日本書記では頭八咫烏、古事記では八咫烏どちらもヤタガラス)から現在の名誉宮司葛城 隆氏で133代目。葛城家系譜略で第三代が劔根命になっている。その子孫は以後は葛城を名乗った。(神々と天皇の間P198・新撰姓氏録シンセンショウジロクの神別 815年)

金剛山の中興者で葛城家の中祖である長香上人が先ず山主権現社を建てて地主神を安置し、本堂を建てて不動、法起菩薩,蔵王権現を祀り、北朝の軍勢の攻撃で荒廃した山頂の再興のため文殊岩屋の前後に草庵を結んで鶯宿庵と名付けた。名前は高天寺の自宅にある鶯宿梅に因んだもの。それが鶯宿坊となり、迚トテも小さかったが長香上人のその徳を尊崇し大宿坊と呼ぶようになった。

 

1383年北朝の足利義満は使をもって長香上人を京都に招いたが参上を断り南朝の兵が山上に集宿した。怒った北朝は大宿坊を焼き打ち。長香上人は再建した。この時北朝の後亀山天皇の勅許で大宿坊が家名となり葛城は余り唱えなくなった。後に大宿坊は秀吉の信用を得て家名寺号兼用になった。(葛城家系譜略 110代長香上人の項)

葛城家系譜略は金剛山記P549547に初代から129代までは全文出ている。

 

山名の由来

神武天皇が尾張族を平定して金剛葛城東麓の高尾張邑の地名を葛城と改めた。結果として

今金剛山、葛城山と呼ばれるエリアが葛城山になった。(日本書記巻第三)

600年代後半に役行者が大和川の亀の瀬から友ヶ島にわたって葛城修験道を立ち上げたことで泉州に葛城の地名が広がった。

葛嶺雑記(1850年頃)には序文に続いて

かつらきは大和の国に限るにあらす このみねは・・・南は友かしま・・・亀瀬といへる所にをわる惣じて紀泉河和の四カ国に跨りて行程二十八里が間の惣名なり

  紀州でも泉州でも、こんな所に?という所でかつらぎの地名に出会う。

  金剛山の名がついたのは華厳経が入って来てからである。

  736年に唐僧道濬ドウセンが華厳経を伝えた。(740年には新羅僧審祥シンショウが東大寺で初めて華厳経を講じたので東大寺を根本道場とする華厳宗が成立したと言われている。)

  平安末期か鎌倉初期に作られたといわれる諸山縁起第十四項に

    花厳経第四十五菩薩住処品に云はく、海中に処あり。名を金剛山といふ。昔より巳来、諸菩薩衆、中に止住す。現に菩薩あり。名を法起と曰ふ。その眷属と諸菩薩衆千二百と俱、常にその中にありて、法を演説す。(金剛山記P140212

 また諸山縁起第十九項には

優婆塞(ウバソク=役行者)は金剛山の行者なり・・・金剛山の法起菩薩なり

とあり、役行者自身が金剛山の法起菩薩の化身といっている。(金剛山記P212

 こんなことも聞いたか読んだ。 

湧出岳で役行者が修行していた時、法起菩薩が演説し、大勢の菩薩が聞いている。そんな場面が浮かび上がってきた(湧き出でたことで湧出ヶ岳)。そこで役行者は法起菩薩をお祀りした。法起菩薩が大勢の眷属を集めて説法していた。それならこの山こそ華厳経にいう金剛山。(出典不明)

 金剛山記では諸山縁起の記事から、法起菩薩が大勢眷属を集めて説法していた。役行者は葛城山で修行する(法起菩薩の権化、化身なのだから)この山葛城山が金剛山とも呼ばれるようになった(金剛山記P140)。

諸山縁起には「金剛山の法起菩薩なり」と出ていて、遅くとも鎌倉前期までには、役行者を法起菩薩の化身、権化とする見方が広まっていた。(金剛山記P212 諸山縁起については金剛山記P515549参照

  華厳経の「法を演説す」 から転法輪山の名もついた(金剛山記P140は説法の意味。法輪は仏法。仏法を説法するの意味(金剛山記P140

  

歴史家の解説は読ませてもらったものの皆目理解できないままに感じたとおりに

書き並べた。若しこれが皆様の興味喚起につながれば有り難い。

 

20185月     根来春樹